復 活 祭 お め で と う ご ざ い ま す 林 桓神父 |
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復活節は教会で最も重要な期間ですが、その意義について理解している人は少ないようです。多くの人は降誕節ならピンと来るでしょう。救い主の誕生を祝うからです。私たちは子どもが生まれれば喜びます。それと同じだからです。 復活節は死の問題と関わるため、多くの人はパウロの時代のギリシャ人同様、死者の中から復活するなどある種の神話、または比ゆ的な言い方だと考え、本当の復活などないと思うでしょう。人は死ねば死んだし、復活などどこにあるというのですか? 確かに復活は常識では理解できません。しかしイエス・キリストの教えを注意深く考えるなら、私たちは復活の本当の意義は何かを知ることができます。 そうです。キリスト者である私たちは、イエス・キリストが死者の中から確かに復活したと深く信じており、この復活は歴史的事実です。でも私たちは今日、この事実をどうすれば理解できるのでしょうか。この事実はまるで、私たちから遠い遠い所に去ってしまったかのようです。世の終わりの後のことだからです。 じつは私たちにとって復活とは、愛の勝利です。愛はすべてに勝り、すべてを導きます。自分を犠牲にする愛がなければ、復活はありません。イエス・キリストが教えたとおりです。「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得る」。愛は大きな代価を支払わなければなりません。もしその愛がわがままで、自己中心になるなら、最後は自分を失うでしょう。 キリストの愛を生きるなら、私たちは日々、自分を棄てるよう求められます。これはとても難しいことです。私たちは毎日、絶えず自分の死と復活に直面していると言えます。私たちはさまざまな弱さのためにつまずきやすく、誘惑に陥ります。間違ったいのちの価値観によって私たちはしばしば、キリストの教えに背いてしまいます。しかし私たちが自分の迷い、偏りに気づき、悔い改めて天の父のもとに帰る時、私たちは自分を棄て、キリストに生きるよう願います。キリストが天の父のみ旨によって自らを渡したように、私たちはゲッセマネの園でのイエスの祈りの経験に学び、愛のために私欲や偏りを捨てるのです。恐れや苦しみがあっても、この経験は私たちをより勇ましく、より自由に生きるよう導きます。すべての苦しい経験の後には飛躍と昇華があります。キリストの死と復活は、この保証を私たちにもたらすのです。この信念をいつも忘れずにいれば、私たちはいのちの中で絶えずイエスの死と復活を体験するのです。 神の国がこの世のいのちの中で「すでに」と「いまだ」であるように、この復活の経験も同じく「すでに」と「いまだ」なのです。イエスの復活によって喜び、希望を持つことができますように。 復活祭おめでとうございます!
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