生 き て い る ぞ

イエズス会中国センター R.ディーターズ神父


 数十年前にイエスの生涯をテーマにした『Godspell』という舞台劇ミュージカルがありました。最後の幕?イエスの復活の幕―に、イエスの弟子たちが舞台から飛び降りて気が狂ったようにお客席の中を走り回り、「生きているぞ」「ほんとに生きているぞ」と叫んだり、飛びあがったりする印象深い場面があります。
復活節のあるミサ中の祈願文で私たちは祈ります、「主よ、私たちが復活の喜びを祝うことができるようにお助けください」と。走り回ったりして「生きているぞ」と叫ぶ弟子と同じ様な喜びを経験したいものです。復活の喜びは、どこでどのようにして得られるでしょうか。それは祈り求めると与えられる恵みです。
イエスの母マリアが3日前に十字架から降ろされたイエスの体を抱いた溢れる喜び。マグダラのマリアが空っぽの墓の前でイエスと出会った時の胸が割れるほどの愛情に満ちた喜び。他の弟子の言葉を信じようとしなかったトマスのかたじけない喜び。弟子たちが故郷へ戻り、漁に行った夜明け、湖畔で朝食を用意していたイエスと出会った時の、黙って静かに味わう喜び、などなど。そのような喜びを与えていただきたいものです。私や私の家族、私の周りの人々にそのような喜びをいただきたいのです。私たちは信仰宣言を唱える時に、「聖書にある通り3日目に復活し、天に昇り、父の右の座におられます」と言います。その言葉を頭では信じますが、体でも心でも、忘れることのできないような喜びを感じたいものです。
先ほどの劇にもう1つの幕があります。舞台で行われるのではなく、私たちの間、私たちの心で行われます。その幕でイエスは、

     見ることのできない目を開き、
     捕らわれ人の枷から
     闇に住む人をその牢獄から救い出す。
     (イザヤ 42・7)

 生きておられるイエスは私たちを自由にしてくださる。この季節の典礼文に「キリストによって新しい時代の日の出があり、古より罪の支配から開放された世界が新たになりました」というのがあります。

  私たちが「罪から開放され、自由になった」とはどういうことでしょうか。罪の支配の苦い経験を、聖パウロが次のような辛辣な言葉で描いています。

      私は肉の人であり、罪に売り渡されています。
      自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることするからです…
      もし、望まないことを行っているとすれば、律法をよいものとして認めているわけになります…。
      私は、自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいないことを知っています。
      善を 行う意思はありますが、それを実行できないからです…。私の五体には
      もう1つの法則があって心の法則と戦い、 私を、五体の内にある罪の法則のとりこに
      しているのが分かります…。誰が私を救ってくれるでしょうか。 (ロマ 7・14~24)

 その答えは「われらの主イエス・キリストを通して救い出してくださる神に感謝します」(ロマ 7・25)です。イエスは弟子に言いました。「あなたたちは私を見る。私が生きており、あなたたちもいるわけでないが、私たちが罪を打ち下す勇気と生きるからである」(ヨハネ14・19)罪が消えて力が与えられています。

 私たちに与えられた新しい生命はイエスがあらゆる表現を尽くして伝えています。例えば「私が来たのは、『私たちに』命を得させ、しかも、豊かに得させるためである」(ヨハネ 10・10)

  それはどのような生命でしょうか。最後の晩餐で弟子に言われました。「私を愛するものは、私の言葉を守る。私の父はその人を愛され、父と私はその人のところに行き、そこに住む」(ヨハネ14・23)。パウロも言います、「私たちは生きておられる神の神殿なのです」(2コリント6・16)

  「イエスが生きているぞ」と叫んでいる役者の様に、次の幕に私たちが走り回り、「私が生きているぞ」と叫びましょう。

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